Masuk紙問屋の屋敷には、ようやく静けさが戻りつつあった。
王都を覆っていた火の手はほとんど収まり、夜通し響いていた警鐘も今は聞こえない。通りを行き交う人々の声には、まだ不安や疲労が滲んでいたが、昨日までのような切迫した騒ぎではなくなっていた。
蘭珠は、屋敷の奥に用意された一室で横になっていた。
産後の身体は、思っていた以上に重い。
少し身じろぎするだけでも下腹に鈍い痛みが走り、切られた足もまだ疼いている。宮中から遣わされた侍医には、しばらく無理に起き上がらぬよう何度も言い含められていた。
その腕の中では、小さな赤子が眠っている。
一月早く生まれたため、やはり身体は小さい。
それでも呼吸は穏やかだった。
小さな胸が規則正しく上下するたび、蘭珠は何度も安堵した。
「よく眠っていらっしゃいますね」
芳玉が、そっと赤子の顔を覗き込む。
その隣では、周蘭が湯の入った器を取り替えていた。
門番の家で暮らしていた頃から、蘭珠たちの身の
紙問屋の屋敷には、ようやく静けさが戻りつつあった。王都を覆っていた火の手はほとんど収まり、夜通し響いていた警鐘も今は聞こえない。通りを行き交う人々の声には、まだ不安や疲労が滲んでいたが、昨日までのような切迫した騒ぎではなくなっていた。蘭珠は、屋敷の奥に用意された一室で横になっていた。産後の身体は、思っていた以上に重い。少し身じろぎするだけでも下腹に鈍い痛みが走り、切られた足もまだ疼いている。宮中から遣わされた侍医には、しばらく無理に起き上がらぬよう何度も言い含められていた。その腕の中では、小さな赤子が眠っている。一月早く生まれたため、やはり身体は小さい。それでも呼吸は穏やかだった。小さな胸が規則正しく上下するたび、蘭珠は何度も安堵した。「よく眠っていらっしゃいますね」芳玉が、そっと赤子の顔を覗き込む。その隣では、周蘭が湯の入った器を取り替えていた。門番の家で暮らしていた頃から、蘭珠たちの身の回りを何かと手伝ってくれていた女性だ。あの夜、火が回った時には周蘭の身も案じたが、幸い無事だった。今は紙問屋へ住み込んでいるわけではなく、自分の暮らしへ戻りながらも、蘭珠が出産したと聞いて毎日のように様子を見に来てくれている。「周蘭さんも、本当にありがとうございます。ご自分のこともあるでしょうに……」蘭珠が申し訳なさそうに言うと、周蘭は手を止めて振り返った。「何を仰っているんです。今の蘭珠様を放っておけるわけがないでしょう」「でも……」「それに私は、あの夜に比べれば何もしていませんよ」周蘭は少しだけ表情を曇らせた。あの夜。思い出しただけで、蘭珠の胸が重くなる。門番の家へ火を放ったのは、雪瓔に仕えていた者だったという。あの女もまた、何者かに操られていたのか、自ら進んで加担したのか、詳しいところまではまだ分かっていない。ただ一つ確かなのは、あの火も今回の反乱と無関係ではなかったということだった。
目を覚ました時、楚凌はしばらく自分がどこにいるのか分からなかった。見慣れない天井。薬草の匂い。身体を少し動かしただけで、背中から肩にかけて鋭い痛みが走る。「……っ」思わず眉を寄せる。その声に気づいたのか、そばにいた医師が立ち上がった。「楚凌殿。お気づきですか」楚凌はゆっくりと瞬きをした。そこでようやく思い出す。景衡を捕らえた。城門が開いた。反乱は終わった。そして、その直後に力が抜けた。どうやら自分は、そのまま倒れたらしい。「どれくらい寝ていた」声が掠れている。医師は水を差し出しながら答えた。「半日ほどです。熱が高く、傷も開いておりましたので、もう少し眠っていただきたかったのですが」「半日……」楚凌は起き上がろうとした。すぐに医師が止める。「お待ちください。まだ動かれてはなりません」「景衡は」「拘束したままです。城の兵も落ち着いております」「蒼隼国は」「今のところ、国境に大きな動きはございません」それを聞いて、楚凌はようやく背を枕へ預けた。終わった。少なくとも今は。そう思った途端、別のことが胸へ浮かぶ。蘭珠。子は。自分が王都を出た時、蘭珠は産気づいていた。もう生まれたのだろうか。無事なのか。聞きたい。だが、王都からここまで報せが届くには時間がかかる。そう分かっていても、胸のざわめきは収まらなかった。「楚凌殿」部屋の外から声がした。医師が振り返る。ほどなくして、一人の兵が入ってきた。王都から来た伝令だった。楚凌の表情が変わる。「殿下からのお言葉をお預かりして
正殿には、夜明けの光が差し込み始めていた。長い夜だった。王都の火はようやく勢いを失い、各所から上がっていた警鐘も少しずつ減っている。伝令たちは今もひっきりなしに出入りしていたが、夜半までのような混乱はもうなかった。景炎は地図の前に立ったまま、何度目か分からない報告に耳を傾けていた。「西側の火災は、ほぼ鎮火しております」「内応者の捕縛も進んでおります。黄色い布を巻いていた者の多くは確保しました」「王都の各門も、現在はすべてこちらの管理下にございます」一つずつ。崩れかけていたものが戻ってくる。それでも、景炎の胸にはまだ重いものが残っていた。景衡。そして楚凌。二人の行方が決まらない限り、この戦は終わったとは言えない。「殿下!」正殿の外から、急いだ足音が近づいてきた。景炎が顔を上げる。一人の騎兵が広間へ駆け込み、その場で膝をついた。全身が泥にまみれ、肩で大きく息をしている。かなりの距離を休まず走ってきたのだろう。「報告いたします!」景炎の指先がわずかに強張る。「申せ」「景衡王爺、捕縛されました!」正殿が静まり返った。その直後、堪えていたものが弾けたようにざわめきが広がる。「捕らえたのか!」「王爺を生け捕りに?」「誰が――いや、楚凌殿か!」騎兵は大きく頷いた。「はい。楚凌殿が追撃し、王爺が逃げ込もうとした国境の城の前で捕らえました。城の守備兵は王爺を受け入れず、楚凌殿の説得に応じて門を開いております」景炎はしばらく何も言わなかった。終わった。その言葉が、ようやく実感を伴って胸へ落ちてくる。陸曜は死んだ。景衡は捕らえた。王都内部の反乱も鎮圧へ向かっている。少なくとも、今この瞬間、瑞華の都を奪おうとする軍勢はもう
朝靄を裂くように、楚凌たちの騎馬隊は城門前へ迫った。遠目にも、景衡の姿はすぐに分かった。閉ざされた門の前で馬を止め、城壁を見上げている。その周囲にはわずかな護衛が残っているだけで、王都を囲んでいた時の勢いはもうどこにもなかった。楚凌は速度を落とした。「止まれ」後続の騎兵たちも一斉に手綱を引く。蹄の音が途切れると、朝の空気に奇妙な静けさが戻った。景衡の護衛たちは剣へ手をかけている。だが、城門は閉ざされたままだ。楚凌はその光景を見ただけで、おおよその事情を察した。景衡はまだ城内へ入れてもらっていない。しかも城壁の上には兵が並んでいるものの、こちらへ弓を向ける様子がない。景衡を守ろうとしているなら、すでに射かけてきてもおかしくない距離だった。城側は迷っている。いや。すでに答えは、ほとんど出ているのかもしれない。「楚凌……!」景衡が振り返った。その顔は青ざめ、長い逃走の疲れがありありと浮かんでいる。「なぜ、貴様がここまで……」楚凌は景衡をまっすぐ見据えた。「陸曜は死んだ。王都へ入った兵も捕らえた。これ以上逃げても意味はありません」「黙れ!」景衡は声を荒らげた。「まだ終わってはいない! ここには兵がいる。蒼隼国からも援軍が来る!」その言葉に、城壁の上の兵たちがわずかにざわめく。楚凌はそれを見逃さなかった。やはり、蒼隼国の援軍はまだ来ていない。そして城内の者たちも、それを当てにして命を懸ける気にはなっていない。楚凌は馬を数歩進めた。景衡の護衛が身構える。こちらの騎兵たちも剣へ手をかけたが、楚凌は片手を上げて制した。今ここで戦を始める必要はない。戦わずに終わらせられるなら、その方がいい。楚凌は城壁を見上げた。「城を守る者へ申し上げる!」声を張る。兵たちの視線が一斉に集まった。「我々が追っているのは景衡王爺です。この城の兵や民と戦うために来たのではない!」城壁の上で、先ほど景衡と話していたらしい武官が姿を現す。楚凌は続けた。「門は閉ざしたままで構わない。こちらへ兵を出す必要もない。ただし、景衡王爺を城内へ入れないでいただきたい」景衡が目を見開いた。「何を勝手なことを!」楚凌は構わず言葉を続ける。「王爺を入れれば、この城は反乱の拠点となる。そうなれば、皇太子殿下もこの土地を敵地として扱わざるを得
景衡は、何度も後ろを振り返っていた。朝靄の中を、馬の蹄が土を蹴り上げる。王都を離れてから、どれほど走ったのか分からない。最初は数百いた兵も、逃走の途中で散り散りになり、今では自分の周囲に残っているのは直属の騎兵とわずかな護衛だけだった。誰も口を利かない。話せば、敗北を認めることになるような気がした。景衡は馬上で奥歯を噛む。こんなはずではなかった。王都内部には十分な人数を潜り込ませた。放火で民を混乱させ、皇太子への不満を煽り、内側から門を開く。狼煙が上がれば陸曜が軍を動かす。王都へ入った後は、混乱した兵を押し切り、宮城を落とす。すべて、うまくいくはずだった。少なくとも陸曜はそう言っていた。――殿下は何もなさらずともよろしい。――王都へ入った後、皇族として御姿をお見せください。それだけで兵も民も、景炎ではなく殿下こそ天命を受ける者だと理解いたしましょう。景衡は、その言葉を信じた。いや。信じたかったのだ。兄の景炎は昔から何でも自分より上だった。戦えば勝つ。政を任されれば結果を出す。父帝からも期待され、臣下たちからも次代の皇帝として見られている。自分は違った。景炎の弟。それだけだった。どれほど努力しても兄の影から出ることができない。そんな自分へ、陸曜は初めて言ったのだ。景衡様こそ皇帝にふさわしい、と。「王爺!」前を走っていた騎兵が振り返った。「もうすぐ城です!」景衡は顔を上げる。朝靄の向こうに、見慣れた城壁が浮かんでいた。胸の奥に、ようやく安堵が広がる。ここまで来ればいい。あの城には兵がいる。武器もある。食糧も蓄えている。何より、あの土地は皇太子の命によって自分が統治を任
王都を離れてから、どれほど走っただろう。夜の街道を、蹄の音が駆け抜けていく。楚凌は先頭に立ち、南へ馬を走らせていた。その後ろには、王都から選び抜いた騎兵たちが続いている。数は多くないが、追撃戦に慣れた者を優先して連れてきた。景衡軍と正面からぶつかるためではない。逃げる景衡を捕らえるための兵だ。「楚凌殿!」前方から声が飛んだ。「敵兵です!」楚凌は手綱を引き、馬の速度をわずかに落とした。街道の先に、いくつもの松明が見える。景衡軍の後衛だった。ただし、軍と呼べるほど整然としてはいない。数十人ほどの兵がまとまりなく走り、振り返っては王都の方角を気にしている。陸曜を失った影響は、楚凌が想像していた以上に大きいらしい。「追いつきますか」隣を走る騎兵が尋ねる。楚凌は前方を見たまま答えた。「追いつく。だが深追いするな」「はっ」「我々の目的は雑兵を討つことではない。景衡だ」腰の剣へ手を添える。その動きだけで肩に痛みが走った。楚凌は眉を寄せた。背中の火傷も悪化している。馬が地面を蹴るたびに身体が上下し、そのたび包帯の下の皮膚が引き攣った。汗が傷へ入り込むのか、焼けるような痛みまで感じる。王都を出る前より、確実に身体は重くなっていた。それでも止まれない。――必ず帰る。自分で蘭珠へ伝えた言葉だった。口にした以上、守らなければならない。景衡を捕らえる。この反乱を終わらせる。そして帰る。それだけだった。「速度を上げろ!」楚凌の号令とともに、騎兵たちが一斉に馬腹を蹴った。蹄の音が大きくなる。前方の敵兵も追手に気づいた。「来たぞ!」「追手だ!」悲鳴に近い声が夜へ響く。景衡軍の後衛が慌てて隊列を組もうとする。だが遅かった。陸曜がいれば、違っただろう。追撃を予測し、後衛へ指揮官を置き、逃げる本隊との距離を保ちながら迎撃させたはずだ。今は、それがない。誰かが「止まれ」と叫び、別の者が「逃げろ」と叫んでいる。兵たち自身が、誰の命令に従えばいいのか分かっていなかった。楚凌は剣を抜いた。「道を開けろ!」怒声が響く。数人の敵兵が槍を構える。楚凌は馬上から剣を振るい、その穂先を弾いた。左右から味方の騎兵が駆け抜ける。敵の隊列が崩れた。それでも、楚凌は追わない。逃げる兵を背後から斬る必要などなかった。「
門番宿舎で暮らし始めて、一ヶ月が経った。華やかな宮中は、もう遠い。 朱塗りの柱も、香の煙も、絹の衣擦れもない。 ここにあるのは、土と木の匂いと、夕方になると肌にまとわりつく湿気だけだ。蘭珠は、まだ慣れずにいた。慣れないのは、家の狭さでも、貧しさでもない。 慣れないのは、自分の立ち位置だった。夫と呼ばれる男が隣にいる。 けれど楚凌は、蘭珠を「妻」として扱うより、「主の妻」として扱っている。 声も、視線も、距離も、慎重に保たれていた。妊娠初期のつわりは思った以上に重い。 朝、粥の湯気を嗅いだだけで胸が波立つ日もある。そんな日々を支えているのが、通いの下働きだった。名は周
楚凌が東門の見張りへ向かったあと、蘭珠は静まり返った小さな家の中を見渡した。こんなに“やることだらけ”の空間に放り込まれたのは、生まれて初めてだった。「……えっと。まずは、お掃除……かしら」宮中では片づけは侍女の仕事だった。 蘭珠が持つ箒の使い方は、見よう見まねでしかない。それでも、やらなければならない。(楚凌様は……わたくしのために働きに出てくださっている。わたくしも……できることを)意気込んだものの、数刻後。部屋の隅には、掃いたはずの塵が小さな山を作り、桶いっぱいに汲んだ水は床にぶちまけてしまい、洗濯は桶に浸けただけで腕が疲れて動けなくなった。「ど、どうしてこんなに難
景炎が凱旋して三日。蘭珠はまだ、夫とまともに言葉を交わせていなかった。今日はようやく「皇太子妃として景炎へ正式に挨拶する日」。胸が痛むほど緊張していたが、それでも蘭珠は信じていた。(殿下は……きっと、変わらず接してくださるわ)だが、扉が開かれた瞬間、胸の奥に冷たい予感が走る。礼服姿の景炎が入ってきた。その背後に寄り添うように歩む白衣の女――雪瓔。その姿を見ただけで、蘭珠は息を呑んだ。彼女はやはり美しい。だが、美しさ以上に「気配」が異様だった。空気が揺れるような、ひどく静かな圧。蘭珠は彼女と会うのは初めて。しかし、遠くから見ただけで、全身が粟立つような感覚が走った。
景炎が出陣して三十日。蘭珠は毎朝、宮門のほうを見つめる癖がついてしまっていた。勝利の報せは届いた。しかし景炎本人からの文は、最初の一通きりだ。「必ず戻る」と記された、あの短い文を最後に。蘭珠は机に向かい、書きかけの返書をゆっくり丸めた。何度書いても、出す前に胸が疼く。(殿下……どうして何の返事もくださらないの)体を動かさなければ、涙が溢れてしまいそうだった。だから庭に出る。ゆっくりと歩き、朝露の光る芍薬の花を眺める。けれど、心は晴れない。そこへ突然、侍女の梅香が駆け込んできた。「蘭珠様! 急ぎのご報せです!」「景炎の……殿下のお便りかしら!?」期待が一気に胸へせ







